レンゾ・ピアノ

NHKで安藤忠雄とポンピドーセンターなどを設計したレンゾ・ピアノの対談を見た。盛んにピアノが「詩的」という言葉を使っているのが印象的だった。建築はまず第一に安全でなければならないが、それだけでは足りない。美しくなければならないし、詩的でなければならない。美というのは表面的なものではなく、精神的なものである。謙虚なものである。
911テロのようなものに要塞のような建築で対抗するのではなく、開放的でなければならない。相手と対話を促す開放性が必要である。そこから理解が生まれるのであって、テロに屈しない要塞を作るのは建築家の仕事ではない。ニューヨークのグラウンドゼロには「何も建てない」という事でしか犠牲者の追悼はできないのではないか、ニューヨークという街にはそれだけの度量が無かった。セントラルパークのような「無駄」の必要性を建築家は社会に対して要請していかなければいけない。「都市の度量」という言葉も印象的だった。
建築家は建築自体に対する責任とともに、長い間社会に存在する構造物を作る者としての責任も負わなければならない。だからこそ建築家は最も素晴らしい仕事である、とピアノは締めくくっていた。
イタリアにあるピアノの事務所は山の斜面に作られた非常に開放的な雰囲気の建物で、ここに意欲のある若者が集まって仕事をしている雰囲気が魅力的だった。確かに一番素晴らしい仕事だと思える何かがあるように思う。
僕は常々、インターネットサービスを作るのは建築に似ていると思っている。きちんとした技術、たくさんの人が使っても快適に使える拡張性と速度、重要情報をしっかり守ってくれる安全性、長い期間止まらずサービスを提供し続けられる安定性が必要である。これは工学的、技術的な課題である。しかし、「ただ速い」、「落ちない」だけでは魅力的なサービスにはならない。
その上に建築と同様、美、詩的、都市的責務というものが加わらなければ価値のある場所に変化しない。特にネットコミュニティの場合には、そこに多くの人が集まって長い時間を過ごし、多くの人と対話を行う場所としての性質がある。そこで繰り広げられる多数の人間の活動を支える場所となり、社会の一部として存在を持つ構造物を設計するわけであるから、その設計者にはより高次の責任が求められるだろう。単にどうやればユーザーが集まるか、どうやれば儲かるか、というだけではなく、ピアノの言う精神的な美の追及を欠いてはいけないのではないか。
インターネットサービスの構築が建築的である、という事を言っている人はあまりいないし、だからそれを目指して勉強する若者もほぼ皆無に等しい状況だ。しかし、今後インターネットサービスの存在が社会で徐々に大きくなっていくに連れて、次第にそうした要素が重要になっていくように思う。しっかりとしたものづくりをしながら、そのような変化を少しずつ起こせられればと思う。