どこが不格好なんだ『不格好経営』

DeNA創業者の南場智子さんが、『不格好経営』という本を書かれて、これまでの道のりを僕たちでも読めるようにしてくださいました。なかなかお話をお聞きする機会も少ない方ですから、とても嬉しいことです。そして読んでみると、とにかくすがすがしい気持ちになりました。

どうして不格好かというと、DeNAの歴史は波乱の連続。まるでドタバタ劇のように次から次へとトラブルやピンチが訪れて、それを持ち前の明るさとタフさで前向きに乗り越えて行く、というドラマの連続だからです。

DeNAというと、ソーシャルゲームで儲けまくっている会社、というイメージですが、その歴史は、なかなか黒字が出ずに苦労されたり、新規事業の立ち上げに苦労されて、業態転換を余儀なくされたり、と波乱万丈。ところが、シリアスな話のはずが、なぜか毎回クスッと笑ってしまうようなディテールの描写と、明るさがあります。なにか、コメディドラマを見ているようなおかしさ。ものすごく真面目に一生懸命やっている人の、がむしゃらさと、ある種の滑稽さ。それを実は自分でも分かりながら、他の楽しみはすべて捨てて、ただただ仕事に向き合い続ける潔さ。そこに圧倒的な集中があり、だからこその成功があり、とてもすがすがしい気持ちになるドラマです。1ページに1回くらいクスッと笑い、10ページに1回くらい涙を浮かべながら読みました。

客観的に見ると、経営史です。しかし、僕が一番感銘を受けたのは、礼儀でした。礼儀という言葉が一番適切かどうかは自信がないですが、とにかく南場さんは人を大事にする。人間に対する愛情や、思いやりから来るのであろう、礼に満ちた態度だけは、最初から最後まで一貫しています。

本の前書きにこんなくだりがあります。

「本を書くことを躊躇していたひとつの理由は、お世話になった人、頑張った社員について、すべてを平等には書けないし、感謝の気持ちも到底十分には伝えられない、その失礼が耐えがたいということだった。」

僕も一度本を書いたことがあります。お世話になった方にとても失礼な事ですが、こんな考えには及びませんでした。これまでの事を振り返るのであれば、世話になった方に適切な礼を述べるべきである、と仰っているわけです。ハッとしました。

上場後に株を売る時の話も印象的です。創業から随分経ち、DeNAが上場したあと、創業メンバーの渡辺さんが株を売りたいと言い出した。渡辺さんはすでに一度小説家を目指してDeNAを辞めて、また戻ってきた経緯もある。ところが南場さんは、創業の時に約束したから、と売却を止めます。南場さんと川田さんと渡辺さんの創業メンバー三人で、「株は売らない、売るなら一緒に」と約束したじゃないか、と。その約束を守るために、三人で手はずを整えて、同じ数だけ合わせて売却をした、というのです。

そんな約束があったのなら、仕方がないだろう、と思われる方もいらっしゃるかも知れませんが、そもそもベンチャーの創業時の約束なんて、夢みたいなものです。「僕たち成功して上場しような!」と話していたとしても、実際に上場できる会社はほとんどありません。メンバーがそのまま仲間でいられる事も稀です。そんな夢みたいな話を、何年経ってもずっと覚えていて、何よりも大切にする。物語として美しいと思いました。どこが不格好なんですか。格好良すぎます。

そしてあとがきで、リクルートの信國さんとのエピソードが紹介されて、結ばれています。

創業時にリクルートに出資を仰いで、事業の立ち上げにも協力してもらったリクルートから、立ち上げを手伝った優秀な社員の方がDeNAに転職された。それで信國さんから6時間詰められた。南場さんは、本人の意思です、と言い続けた。その後に信國さんとは疎遠になり、きちんと話ができないまま信國さんが他界された。南場さんは、その事が、こんなに自分を苦しめるとは思わなかった、と仰っています。そして、人を採ったことよりも、自分は誘っていないと言い続けたことが自分を苦しめている、と締めくくられています。

南場さんは、「本書を執筆した理由のひとつは、信國さんに伝えたいことがあったからでもある」と書かれています。自分がお世話になった方へ、礼を尽くせなかった事を悔い、この本を捧げられたのだと感じました。自分の事や、DeNAの事ではなく、他のどんなあとがきよりも、創業時にお世話になった方への恩を優先されたのだと思いました。

どうして最初から最後まで、ここまで礼儀だけは一貫されているのかと考えると、きっとご両親の教えなのだろうと思いました。

冒頭に紹介されるお父さんは、かなり厳しいお父さんで、父の言う事は絶対。特に理由は説明されないが、父が決めればそれが絶対的に家族の決定、というご家庭です。父が家に帰るとなると、お母さんと妹さんと三人で父を迎える準備をし、ご飯を出す、というご家庭だったそうです。

あまりに厳しいし、理不尽に感じます。ところが、南場さんはそのお父さんのことをまるで悪く書いていません。お母さんが、その父を支えられ、それが正しい、という秩序のある環境を作られていたのではないかと思いました。そしてその秩序だけは維持されていて欲しい、と思う南場さんのお気持ちが、一貫した礼に満ちた態度を作り出しているのではないかと感じました。

すがすがしさのもう一つの理由は、人に対する一貫した礼に満ちた態度です。礼儀は、ある種、理不尽なものだと思います。挨拶をしたら挨拶を返せ、という話に対して、なぜか、と言ったところで、なぜも何もなかったりします。理由なんてないのに、ここまで物語を美しくする。人をすがすがしい気持ちにさせてくれる。そういう人としての大切な態度を、学ばせて頂いた気がします。南場さん、ありがとうございました。いつかまた、お話してみたいです。

不格好経営―チームDeNAの挑戦

不格好経営―チームDeNAの挑戦

短足のスーパーマン

僕の実家は田んぼがどこまでも広がる田舎だったので、犬と言えば軒先でわんわんと吠えまくり、知らない人を見れば追いかける生きものでした。おかげで僕は犬が怖くて、いつもびくびくしていました。父親もそうだったと思います。

妻のれいこさんと交際をするようになって、まず最初の難関が彼女の飼い犬でした。家に上がると部屋の中に犬がいて、こっちに寄ってきます。い、犬だ…と思いながら、恐々と足を舐められていました。

はじめて二人で部屋から出かけた夜、部屋に帰ってみると、部屋中に引きちぎられたスリッパが散乱していました。れいこさんを、僕が奪っていったと思ったのでしょう。後にも先にも、しなもんがそんなことをしたのは一回きりでした。

しなもんの愛くるしさのおかげで、僕の犬嫌いはすぐに直り、一緒に散歩をするようになりました。僕はどうしてもうんちを拾うのが苦手で、そちらはもっぱられいこさんの担当ということになって、そこから15年もお任せしっぱなしでした。うちの庭に落ちていた最後のうんちは、せめてもの罪滅ぼしに、と、自分で拾いました。散歩の時の僕の担当は主に遊びで、サッカーをしたり、テニスボールを投げたり。

しなもんはとにかく走るのが好きで、テニスボールをどれだけ遠くに投げても、喜び勇んで駆けていき、嬉しそうにボールを咥えて全力でこちらに戻ってきます。どれだけ投げても飽きることなくボール投げをせがむので、こちらもむきになって、力の限り遠投をして、100mくらい向こうまで転げたボールを取りに走らせることもありました。はじめてボールを投げた船岡山公園や、京都府立大学のグラウンド、高野川、渋谷では鉢山オフィスのテニスコートで走り回り、駒沢公園に移動したあとは、Mountain ViewのCuesta Parkが、そして京都に戻ると鴨川が彼のフィールドでした。

熱中している人をみると、とことんやらせたくなるのは僕の親譲りで、そんなにボールを追いかけたいなら、限界を見せてみろ、といわんばかりに延々とボールを投げ続け、涼しければゆうに30回は投げたか、というあたりで、ようやくしなもんもへこたれ、ボールを拾ってこちらに戻ってくる途中で走るのをやめてぺちゃんと地面に座り込み、ボールを下において舌をベロンと出しながら、はあはあはあと息をしている姿の満足そうなこと。

短い足を、前足は前に、後ろ足は後ろに伸ばして、不恰好なスーパーマンのような姿で、草むらにぺちゃんと座り込んで、はあはあはあと満足げな顔で息をしているしなもんがたまらなく好きでした。お前の今の目一杯の力を、僕は見てやっているぞ、と思いながらその姿を眺めていました。飼い犬の散歩、というよりは、子育てをしているような気持ちで。この子はどこまで走れるようになるのだろうか。走り続けた先に、何があるんだろうか。しなもんの未来を楽しみに思いながら、力の限り生きる命を見守っていました。

でも、犬はやっぱり犬です。僕たち夫婦が子どもを授かり、家族が四人になると、人間の子どもの手のかかることかかること。といっても、こちらももっぱられいこさんにお任せしっぱなしのだめな父親なのですが。最初はしなもんがお兄ちゃん面をして、息子の時は少し警戒していたのですが、時も歩けるようになり、言葉も話せるようになってくると、少し対抗して喧嘩するようになりました。そうこうしている間に、しなもんの体力が落ちてきて、ボール遊びもしなくなり、ゆっくりと散歩をするのが日課になり始めたあたりで、時としなもんは仲の良い友達のような具合になりました。時が金太郎よろしくしなもんの上に乗ろうとするのを、しなもんが頑なに拒否して逃げ惑う。追いかける時。逃げるしなもん。時はしなもんのお尻の毛をつかんで追いかける。しなもんはやめてくれよう、と逃げ惑う。

しなもんのお尻の毛は誰が名付けたのか、もん毛と言うんです。モフモフしていてこれがまた気持ちが良い。このもん毛が曲者で、どこにでもついてくる。出張先のホテルでかばんを広げると、中にもん毛がくっついている。いつもそばにいるよ、とばかりにしなもんがくっついてくる。しなもん、ここにもいたのかよ。挙げ句の果てに、折りたたみ式の携帯電話の画面の中に、もん毛が現れた時にはびっくりしました。取れないし。しなもんよ、ここにもか。ほんとにどこまでもついてきた。

れいこさんはどうもかわいいものが好きで、というか、れいこさんが育てるとなんでもかわいく育つのか、どういう因果かよく分からないけど、しなもんも時も随分かわいく育ちました。そんなものは単なる親バカであろうと思うものの、ブログを読んだ方や、会いに来てくれた方からもかわいいかわいいと言われ。しなもんを連れて散歩していると、女子高生にも、なにあの犬!かわいい!やばい!、と声をかけられるという。なんという役得。飼い主的な意味で。そんなに言われるということは、外様から見てもかわいい部類に入るのでしょう。はてなのユーザーさんからは、いつしか会長と呼ばれるようになりました。

自分の飼い犬が会長!?自分が社長だ、ということもしっくりこないのに、会長ってなんだ。犬って会長になれるのか。法的には無理だろうし、頑張ってくれている社員やユーザーさんにもふざけているみたいで失礼な気がする。公私混同甚だしい、と思ったから、自分は何もしなかった。黙っていた。しなもんを溺愛するユーザーさんとお話した時は、あえて犬と呼ぶようにした。それでもしなもんは愛された。僕のつれない態度なんかそっちのけで、しなもん人気はうなぎ上り。こんなに愛された犬なんているの?インターネットでは犬が会長になれるの?社長よりも犬の方が人気だよもう。

社員も社員で、勝手にしなもんをマスコットみたいにして、はてなのサーバーが不具合を起こしている時は、しなもんがごめんね、って謝るようにしてしまった。しなもんの公務誕生。なんでつながらないの、と思われている方に、社を代表してお詫びをし続けてくれた。ありがとう、しなもん。あまり褒められたことではないけど、不具合が多い時期があって、たくさんの方がしなもんを知るようになった。

はてなブックマークのコメント欄を見たかい、しなもんよ。1600usersだってさ。お前、どれだけ愛されていたんだよ。しなもん日記のスターを見たかい。まるで献花の花束みたいだった。人間のお通夜みたいに、我が家でお別れ会を開いたら、身内だけで50人も来てくれたよ。しなもんおまえ、どれだけたくさんの愛を振りまいたんだよ。

6月21日金曜日にしなもんは逝きました。ちょうど土曜日と日曜日に必要なことが全部終わる金曜日の午後に。ちょうど、会社のTGIFが予定されていて、会社のメンバーの夜の予定が空いていて、別れを言いに来れる金曜日に。社内でもことさらしなもんを愛してくれていたきよひろが、なぜかたまたま京都出張している金曜日に。ずっと前から、実家の父と母が楽しみにしていたスペイン旅行が終わり、日本に帰って今なら別れに駆けつけられる、という金曜日に。

何もかも分かっているようだった。この日を待っていたような逝き方だった。最後まで、僕たちを守ってくれた。

そう、守ってくれていたんだよね。いろいろ未熟でした。夫としても、社長としても。犬が会長なんて、と言いながら、助けてもらっていたのは自分でした。それも見届けてくれたんだよね。ここからは、お前たちでやっていけと。ちょうどこの五月は、そういう変わり目でした。

皆さん、たくさんのお言葉を頂いてありがとうございました。お別れに来て頂いた方、お花を頂いた方、電話やメールやお手紙を頂いた方。しなもん日記にスターやコメントをつけて下さった方、はてブにコメントを頂いた方、ブログの記事を書いて頂いた方。皆さまのお気持ち、届きました。しなもんは幸せものです。温かいお言葉を頂き、ありがとうございました。こんなに愛された犬はいないと思います。

会長がいなくなり、はてなとしても一つの区切りの時を迎えることになりました。しかし、はてなには、新しい才能が花開こうとしています。どこまでもユーザーさんの立場に立って、良いサービスを作ることに一心になって仕事に励む優秀なメンバーがめきめきと力をつけています。サーバーの不具合でしなもんを見る機会も随分と減りました。犬が会長の変な会社を粋に感じ、集まってくれた魅力的な面々が、力を合わせ、ここから、またはてなを盛り立てていきます。

会長の穴を埋め、皆さまに最高の体験をお届けできるよう、力を合わせはてなは進んでまいります。
皆さまどうか、これからのはてなを、よろしくお願い申し上げます。

超交流会

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今年も京都大学で超交流会が開かれた。京大の情報学研究科の同窓会だというのに、なぜか情報学どころか、京大にさえ関係ない人でも誰でも参加できるという、いったいなにが同窓会なのかよく分からない懐の深いイベントである。

だいたい、「誰でも参加できる同窓会」というコンセプトが意味不明すぎる。言葉の定義的に間違っている。

誰がそんな事を始めたかというと、クエステトラの今村さんだ。同窓会の幹事になったけど、全く人が集まらないので誰でも参加できるイベントにしよう、と考えたらしい。ぶっ飛んでいる。いいじゃん、やっちゃえ、ってなノリで始めてしまった。

しかし世の中不思議なもので、そのぶっ飛び具合いにこれまたうまい具合いに反応してしまう人がいる。その筆頭がプロフェッショナルコネクターの勝屋さんだ。勝屋さんは僕に人付き合いの大切な事を教えてくれた方だ。歩くパワースポットである。ポジティブなパワーを発する人間や場所を見つけては寄っていき、どんどんつなげてしまう。恐ろしい磁力の持ち主だ。ここまで来るともはや驚くこともないが、当然のように情報学にも京都大学にもまるで関係がない。

今村さんや勝屋さんがあれこれ動き回るうちに、超交流会はどんどん増殖を始めた。過去五年の登壇者を見ると豪華なメンバーが揃っている。参加者が500人を超えたとかという話も聞いた。

そして今年の超交流会である。今年は純度が高かった。あるのかないのか分からないが、僕が勝手に感じている超交流会の流れというか、思想というか、文化みたいなものに見事にマッチする人たちが集まった。多分二人の歩くパワースポットが引き寄せたのだろう。

形式としてはカンファレンスのような事をやっている。朝からホールでパネルディスカッションのようなものが一日続き、最後に懇親会があって終わり。パネルディスカッション?いや、なんかちょっと違う。あれはなんと呼べば良いのだろうか。ディスカッション?雑談?飲み会?まあなんでも良いや。

とにかく一応タイトルのついたセッションが午前午後で四つほど続いて、それぞれのテーマに沿った議論みたいなことをしている。突然観客が壇上に呼ばれて、登壇者が増えて行くのはよくあることだ。面白そうな話をしそうな人は舞台に引っ張り上げられる。だんだん誰のセッションか分からなくなっていく。会場の質問者には舞台の上から柔らかいボールが投げられ、頭上をボールが飛び交ったりする。ボールを投げる勝屋さんがノーコンなので、まるで関係のない観客のところに飛んでいき、客はボールを拾って正しい質問者の方へボールを投げたりしなくちゃいけない。勝屋さんは、ボールがあるとパワーが届く感じがして良いよね、って言っていた。様子をみているとそれなりに同意できるが、そのあとにマイクを持って結局質問者のところに駆け寄っていくのだから、ボールに意味があるのか、ということは誰もが一度は抱く疑問である。しかしそれも愚問だ。パワーは伝わるのだ。

そしてセッションである。ロボットを作っている石黒先生は、資本が価値である資本主義のあとには、知識が価値となる世界が来て、そのあとに愛が価値となる世界が来るだろうと言った。資本や知識のように、相対的に多いか少ないかを比べられるものから、自分自身で感じる幸福感のような絶対的な尺度の重要性が高まっていくのではないかと語った。石黒先生はロボットを研究しているのではなくて、ロボットを作りながら人間を研究しているのだ。

僕は人間の心がちゃんと科学的に解明されていないから、幸福度は絶対評価になってしまうが、心が解明されればそれも相対価値に転嫁するのではないですかと質問した。そうしたら石黒先生が、そこはこれから一番面白いところで、特に五人くらいの集団が集まった時に、心に何が起こっているのかはぜひ調べるべきだとお話されていた。そういえば心理学は、個別の人間一人一人に着目しすぎなのかもしれない。

その次がボールが飛び交う勝屋さんセッションである。心をオープンに持って、いろんな人とつながりましょう、という話だった。誰と付き合うかを打算的に決めちゃダメだ、ちゃんと心を開けて、純粋に面白いと思う人と積極的に付き合おうぜ、って言っていた(気がする)。だいたい、付き合うと自分が得か損か、という考えが、次元が低すぎるし、そういう考えをしている時点でそもそもあなた自身が人間的に全く魅力的じゃないよ、ってことなんでしょう。同意です。

最初のセッションで濱口さんがうまいこと仰っていて、人間は世界をタグ付けして見ている、と言っていた。机の上の水の入ったペットボトルの事を考えなくて良いのは、それが自分には害を及ぼさない単なる水である、と自分の中でタグ付けして見ているからで、人間はそうやって世の中を単純化して見ることで、考えるべきことに思考を集中させる事ができるのである、というわけだ。濱口さんが口を開くと、いきなり世界が整理されて見えてくる。どんな魔法があるのかと思うくらいに整理される。マジシャンみたいな人だ。

終わったあとの懇親会で若い大学生と話していたら、どうやったら彼女ができるんですか、と質問して来た男子学生がいた。逆になんで彼女ができないの?って質問したら、僕は今時の女子大生とは合わないんですよね、って言い始めた。うわ、タグ付けきたぞこれ!って思った僕は、ここぞとばかりにタグ付けの話を持ち出した。もしもし君ねえ、そうやってちゃんと付き合った事もないのに、大学にいる女性を全部まとめて今時の女子大生、とかって整理して、全部まとめて対象外だ、とかやってるから彼女ができないんだよ。それをタグ付けって言うの。もっと心をオープンに持って、一人一人の人間に真摯に向き合いなよ、そうしたら、気づかなかった良さが見えて来て、ぴったりの相手も見つかるからさ、と、さも自分で考えたかのように、その日導入したばかりの話でアドバイスをしてみた。なるほどー、って喜んでもらったので、まあ良かったのだろう。

話を戻して勝屋セッションだが、打算というのは石黒さんのいう資本主義だし相対価値の世界である。相手より自分の方がお金を持ちたい、知識を持ちたい。そういう競争を生き抜く上で、得になる事はやります、損する事はやりません。心を開けというのは、いやいやそんな細かい競争をするよりもっと大事で楽しい事があるでしょう、という絶対価値の話でつながった。

午後はどうしたらコミュニティが盛り上がるのかというセッションがあって、音頭を取る人がいて、フォロワーがいて、場所があって、共振が起こると盛り上がりますって事だった。共振って、朝石黒さんが話していた、集団の心理学の話と同じだ!

最後はゲーミフィケーションのセッションだったけど、水口さんは人間のウォンツを全部分解したい、って話していた。なんでも、ウォンツが見える水口メソッドなるものを開発したらしく、一日くらいウォンツに向き合うと、自分が本当は何をしたいのかが結構見えるようになるらしい。なかなかすごい。結局ゲームというのも、人の根源的な欲求を満たす要素がいくつか揃ったものが流行るわけで、そういう欲求を見つける事がゲーム作りの本質であるという事なのだろう。

スマホで毎日なめこを育てる人がいるのは、何かを育てるのが楽しいとか、びよーんって刈り取るのが気持ち良いとか、そういう人間に共通するウォンツが潜んでいるんだよ、って事だった。マクルーハンという人が、メディアは身体の拡張だ、と話して、自動車や飛行機は足の拡張で、早く移動したいという人間のウォンツを拡張しているんだ、って事らしい。これも、もはや人間ってなんなんだ、って話ですね。

それでいろいろテーマはあるんだけど、全部の話がちゃんとつながっていた。結局人間っていったいなんなんだよ、僕たち全くわかってないし、これまで分かっていることだけで世界を見るのは危険すぎるよね。だいたい、大切なのは金儲けより愛だろ、愛!という感じでしょうか、まとめると。

前日に登壇者と運営メンバーで集まって前夜祭したら、みんな、ただいま!って顔で集まってきて、妙なテンションだった。水口さんがそれをうまいこと表現していて、みんな小学生になっちゃったね、って言っていたけど、本当にその通りだった。同窓会が盛り上がらないのを見るに見かねて、だったらこの同窓会を、みんなの同窓会にしてしまえ、と解放してくれた今村さんの気持ちに共振した人たちが集まる、新しい形の同窓会がそこにあった。