『数学する身体』を読んで〜僕が身体で感じていたことは、嘘でも無駄でも無かったんだ

森田くんが初めて書いた本。「数学する身体」。
わざわざ「本を届けたいので」と、会社の近くまで足を運んでくれて、ランチを共にしながら渡してくれた本。
構想ができてから書き上げるのに4年かかったという本。
もともと、文章を書くときにはとんでもなく集中して、丁寧に言葉を積み上げて、何度も何度も読んで味わえるような、スルメみたいな精緻な文章を書く森田くんが、初めて1冊の本を書いた、という本。
もうそれだけで、読む前から、これはすごい本だ、ということは分かっていた。

すごいというのは、とにかく、中身云々の前に、通常では考えられないような思考と集中を持って、作り上げられたものが、今目の前にある、ということだ。
そういう本を、適当に流し読みすることはできないので、こちらも読むときには多少の心構えが必要だった。
できるだけ頭が冴えている時間を選んで、なるべく本に集中できる環境が整った時に、読むようにした。
それくらいしないと勿体無い、と思った。

内容は、これまでに、数学の演奏会や、数学ブックトークなど、森田くんが行う数学のライブトークイベントで語られていた内容がベースになりながら、その中でも一筋の道として辿ることができる物語、あえて簡単に書くとすると、僕の理解が正しければだが、「数学が人間の身体から離れて抽象化・形式化していく過程と、再び身体の重要性を認識し、人間の心の不思議に迫ったアラン・チューリング岡潔という二人の数学者と森田くんの物語」とでも言うような、一筋の物語が語られている。

数学のライブトークでは、森田くんから溢れ出る言葉や、身振り手振り、まさに身体全体を使ったパフォーマンスに、ついていくだけで必死、終わった後は、こちらもなぜか少し身体に心地良い疲労感が残り、最高の知的満足度が得られる、という、そういう体験を毎回することになる。そこには、ユーモアに富み、圧倒的なスピードで展開する森田くんの言葉と身体表現が溢れているため、身体全体で取っ組み合いをしているような感覚がある。言葉は柔らかく、空気全体を震わせるため、身体が包まれるような感覚になる。道で言えば、ふかふかの落ち葉や木々に包まれた柔らかい道を、気持よく疾走しているような感覚だ。

一方でその内容が抽出され、文章に結実された今回の本は、言葉に全く無駄がない。展開する言葉の一つ一つが、しっかりとした意図を持って選び抜かれていることが伝わってくる。いかに長い時間をかけてこの文章が構築されたのかを思わずにはいられない。そのため、より本質的な内容が、固くストレートに頭に入ってくる。こちらも道で言えば、丁寧に敷き詰められた石畳の道を、一歩一歩確かめながら歩いているような感覚だ。

内容は、ここ最近、特にこの数年間自分自身が感じていることに近く、随所で「そうそう。そうだよなあ」と納得したり、共感することばかりだった。と言うよりも実は、僕がこの数年間で、それまでとは少し違う思考をするようになったきっかけを与えてくれた一人が、森田くんだった。

自分も一応、理系の学部を卒業した身ではあるが、数学や科学というものは、論理や形式の塊のようなものであるという認識を持っていた。全てが論理的に説明可能であって、この世界はそうした論理的な法則によって動いている、という認識だった。確かにこの世界には、科学がまだ解明していない事柄があるだろうけど、いずれは科学が全ての法則を解明し、この世がどのように動いているのかは論理的に説明できるようになるはずだ、という科学への万能感、一種の幻想を抱いていた。

このような世界に対する捉え方は、生活の随所に溢れ出てくるものだ。例えば何か問題があれば、その問題を論理的に分析し、論理的に導き出される解決策を着実に実行すれば、解決できるに違いない、と言った考えにつながっていった。例えば人間関係や、会社経営などの問題についても、根底にある基本法則を理解し、その法則の上で論理的に導き出される解決法を、その通りに実行すれば必ずうまくいくはずである、といった思考につながっていく。

しかしどうやら、なかなかそれだけではうまくいかないことがありそうだ、という事を感じ始めていた頃に、森田くんの話を聞く機会があった。そこで森田くんは、「数学は情緒だ」などと言い出したのである。

情緒などという、いかにも論理とは程遠い言葉が出てくる意外感。しかも、論理の塊のようなものだと思っていた数学をやっている森田くんが、僕がこれまで出会った中でも、とびきり頭の冴えた優秀な人だと思える森田くんが、「情緒」について語り始めるとはどういうことなのか。僕はその意味について、深く考えざるを得なかった。そこには、自分がこれまで見過ごしていた、重要な何かが隠れているに違いないと直感的に感じた。

このきっかけは、決定的に自分の科学に対する認識を変えてしまった。そして、少し大げさかもしれないが、世界の見方を変えてしまうことになった。

森田くんが象徴的に引用している、岡潔の「数学は、1という数の存在を証明することができない。1を成立させているのは、人間の情緒である。」という主張を聞くと、まず、そんな誰もが知っている基本的な事柄を、数学は証明できないのか。そんな曖昧なものの上に、数学は構築されているのか、という愕然とした気持ちになる。

しかし、実はどこかで、子どもの頃から身体で感じていたのに、その後たくさんの知識を詰め込んだせいで、まるで無かったことかのように封じ込めていた感覚。たとえば「りんごが1つある」ということを最初に「分かった」と感じた時の身体の感覚のようなものが、突然表舞台に引き戻されてきたような嬉しさがまた、同時に感じられた。僕が身体で感じていたことは、嘘でも無駄でも無かったんだ、という懐かしく温かい気持ちである。

そう、そもそも僕たちは、人間とはなにか、心とは何か、僕たちが生きるとはどういうことなのか、何も知らないではないか。当たり前のように毎日生きているけれど、なぜ生物として生き続けられるのか、よく分からない。当たり前のように、心があると思っているけれど、心とは何か、よく知らない。

薄々感じてはいたけれど、なんとなく無かったことにしていた疑問が、突然湧きだしてきて、「そもそも僕たちはほとんど何も分かっていないんじゃないか」、という感覚が自分を覆い始めた。

僕自身の体験談になってしまったが、この数年間、森田くんと接し、話を聞く中で自分に起きた変化とは、端的に言えばそういうことだ。そして、それだけ大きな変化を起こしてしまった重大なことが、この本には書かれている。

この本を読めば、心とは何か、が論理的に理解できるわけではない。しかし、僕たちが、いかに心のことや、人間のこと、自然のことを分かっていないか、が分かる。そして、分かっていないながらも、「心とは何か」といった、本質的な問いに向かって歩み続けることの潔さ、そこに生涯をかけ、歩んだ人たちの道のりがいかに尊いものであるかを感じることができる。少なくとも僕たちは、進み続けているのだ、ということを知ることができる。

その過程では、科学がこの世界を解明できるはずだ、という万能感からの挫折と無力感を感じる時もあるし、自分たちが分かっていないことが分かった、という新たな喜びや、だけど身体は分かっているはずだ、という希望を感じることもある。結果的に、僕自身にはそれらが入り混じったような、複雑な認識が身体に定着しつつある。

しかし、そのように、人間が分かっていることと、分かっていないことがあり、分かっていないことが分かるかどうかは分からない、という複雑な状況をそのまま捉えることが、実際に複雑な世界を認識する上でとても大事なことなのではないか、と感じている。そして、たとえ気の遠くなるような長い道のりだとしても、それでも今この瞬間瞬間に、少しずつでも本質的な問いに向かって進み続けることが、やはり価値のあることだと感じる。そもそも世界は複雑なのだ。簡単に答えを求めすぎてはいけないのではないだろうか。

僕はこの本を読んで、数千年にわたって複雑な世界の謎に向かう道を歩んでくれた方々と、そしてその道がいかに魅力に満ちた、意味のある道であるかを教えてくれた森田くんに、心からありがとう、という気持ちになった。

数学する身体

数学する身体