1995年1月、大学1年生の冬に阪神・淡路大震災が起きた。
たった数時間で現場に行ける京都にいながら、結局僕は一度も現場に行かなかった。
時を経て、震災の話が出るたびに、「なぜ自分は現場に行かなかったのだろう」と思うようになった。
恐らく何かに忙しかったんだろう。
しかし今考えみれば、それほど重要な用事があったとも思えない。
自分は小さな世界の中にいた。
2011年3月、東日本大震災が起きた。
新聞記者をやっている友人が現地の取材のためにしばらく仙台勤務になった。
転勤の挨拶メールに、「そのうち必ず行くので会おう」と返事をした。
同僚のYさんが東北の海岸を車で巡った。
南三陸のホテルは元気に営業しているからぜひ行くと良い、と会社のみんなに紹介をしていた。
大学時代の友人が仙台の近くの被災地を巡り、写真を送ってきた。
みんなにも知って欲しい、と訴えていた。
東北大学の学生チームが、TEDxTohokuを立ち上げた。
「10月にイベントをやるので近藤さんも来ませんか」とご招待を頂いた。
行かなくちゃ、と思った。
仕事の休みを取り、東北を巡ることにした。
仙台空港が近付くと、飛行機の乗客の様子が変わった。
皆が静かに、窓の外の景色を凝視し始めた。
その時、これは普通の旅行ではないことを悟った。
空港のそば、レンタカーの営業所のとなりの飲食店の店舗は、ボロボロに壊れていた。
「壊れた日常」の風景がここから始まった。
レンタカーの店員さんは、まるで何もかもが平常時と変わらないかのように応対をしてくれた。
名取市の高校の校庭には、つぶれた車が何百台も積み重なっていた。
どうして車が、波でここまでぐちゃぐちゃにへしゃげてしまうのか不思議だった。
高校の校舎には泥やがれきがそのままになっていた。
当時学校にいた人々は無事で、今は別の学校に移っていることを知った。
名取市閖上(ゆりあげ)に行くと、街がまるごと無くなっていた。
かつて家があった場所には、家の土台がまるで遺跡のように残っていた。
家の敷地は、家が立っている時よりも随分狭く感じるんだ、と思った。
閖上で営業を再開したコンビニの女性店員さんが、震災の事を話してくれた。
自宅の3階から、船や家が燃えながら流れてくる様子を見ていたこと。
その中には人が含まれていたこと。
おじいさんを亡くされたこと。
時たま涙が止まらなくなるので、我慢せずに泣くようにしていること。
そんな話を、明るく、気丈に話してくれた。
「みんな吹っ切れて明るく振る舞ってるのよね。『全部なくなっちゃったからね』、ってね。」と彼女は言った。
その笑顔に、自分が元気をもらった。
石巻市に着くと、水が引いておらず、壊れたままの建物が残っていた。
臭いが鼻をついた。
この頃になってようやく、家族の会話に少し笑顔が戻った。
「壊れた日常」の中で、少しくらい普通に振る舞えるようになるには、半日かかるんだと思った。
南三陸町のホテル観洋は、ホテルとして完璧なサービスを提供していた。
真っ暗な夜道を走り、明かりが灯るホテルに着いた時、竜宮城に着いたのかと思った。
スタッフの方が、プロとしての仕事をてきぱきとこなしている様子に、大きな安心感と幸福感を感じた。
自分の仕事をやれることは、人の尊厳に関わる事だと思った。
翌朝訪れた南三陸町も、街ごと無くなっていた。
がれきが残る荒野のような街で、ぽつんとガソリンスタンドとコンビニだけが営業をしていた。
最初に必要になるのは、人間の食事と、自動車の食事なんだな、と思った。
屋根もないガソリンスタンドから、「いらっしゃいませー」という威勢の良い声が聞こえてきた。
人は強い、と思った。
気仙沼市は多くの部分にまだ水が残り、壊れた建物もたくさん残っていた。
港も壊れていた。
壊れた港に船が着けられ、魚が水揚げされていた。
壊れかけの建物の中で、魚がさばかれていた。
舗装がはがれた砂利道の上を、魚を運ぶ車が忙しく走り回っていた。
修復がすんだ魚市場では、たくさんの人が魚を買っていた。
漁師たちの、強い意志を感じた。
両親や同僚に向けて、魚をたくさん買って送った。
陸前高田市も街ごと無くなっていた。
陸前高田市は広かった。
荒野がどこまでも広がっていた。
何もかもまだこれからだと思った。
東北を巡った。
テレビでは分からない事ばかりだと思った。
街がなくなるとはどういうことなのか、自分で見るまで分かっていなかった。
2日間かけて走り回っても回りきれないほど、壊れている街は広かった。
何よりも元気を与えてくれるのは、人間の活動だと思った。
人が仕事をすることは、人の尊厳に関わる大切な事だと学んだ。
震災が、「どこか遠くの街のこと」から、「自分が関わること」に少し近付いた。
まだまだこれからだ、と思った。