下げてから上げるネット世論

はてなの京都移転を2月14日に発表してから2週間が経過した。通常では考えられないほどたくさんの感想や意見を頂いている。未だに今回の移転に関したブログのエントリーなどが続いており、これには正直驚いている。それだけはてなに期待を頂いているということだと思うし、今後魅力的なサービスを送り出すことでその期待に応えていきたいと思う。
ところでネット上の反応には「下げてから上げる」というパターンが見られると思う。最初条件反射的に批判的なものを含む感情的なコメントがたくさん見受けられ、その後に肯定的なものを含む理性的な批評的意見が現れるというパターンがあるのではないか。それなりに新規性があり、且つ、論ずるに値するだけの価値があると思われる話題については、ネット上でこのパターンがよく現れると思う。
あえてはてなの話題を外して過去の例で言うと、例えばJR西日本の事故でJR職員が現場をあとにして出社したということで叩かれた事件があったが、その後、テレビでは論じられなかった「救急隊員でもないのだしJR社に出社するのも仕方ないのでは」といった意見も出ていた。あるいはギョーザに殺虫剤が入っていた事件も、「中国で混入していたかどうかは分からないのでは?」と言った意見が事件発覚後数日経ってネットで見られるようになったように思う。
この下げたあとの上げ、数日後に現れる理性的意見にインターネットの可能性があると思う。インターネットのオープンさと非同期性によって初めて、こうした現象が生まれたと思うからだ。たとえば同期的なコミュニケーションの場合、つまりある場所に集まって意見を言い合うような場合には、どうしてもよく考えてあとから論ずる、ということが難しい。そのため感情的な論争が起こりやすいし、売り言葉に買い言葉で「下げ」てばかり、という事にもなりかねない。
一方テレビなどのメディアでは、広く非同期的に見解を論ずることができるものの、情報を発信できる者が限られているため、多様な意見が出にくい。いったん論調が決まってしまうと、だいたいその方向で進むことに息苦しさを感じることもある。
その点インターネットでは、「よく考えてから多くの人に向けて意見を論じる」事ができる。これは素晴らしいことだと思う。
一方最初の「条件反射的なネガティブ反応」が大量に集まるのもインターネットの特徴であると思う。ブックマークなどにネガティブなコメントが群がるのを「ネットイナゴ」と言うらしい。最初この名前を聞いたときは思わず笑ってしまった。
この条件反射的ネガ部分にばかり注目が集まり、それをもって「インターネットは良くない」といった論じられ方をすることがあるのが非常に残念だ。
先日とある業界の方が「若いクリエイターにはネットの反応を見るな、と言っている」と仰っていた。無用な批判を見たせいで制作意欲を失うのを防ごう、という事だろう。あるいは先日僕の友人が、「心底心がすさむので特定の話題についてネットでは読まないことにしている」という事を言っていた。ネットがなぜそんなことになってしまったのかと悲しくならざるを得ない。
最近のインターネット関連の雑誌などを読んでいると、「ブログで炎上しないためのコツ」みたいなことが書いてあって、「人を批判することは控えましょう」とか書いてある。知ったかぶりをして批判をしたりして、自分の未熟さをあえてさらすような事は避けましょう、というもっともな指南も書いてあるのだが、批判が書けないブログってなんなんだ、とも思う。
知ったかぶりをしたり、嘘を言ったりするという幼稚さを無くし、だんだん大人になりましょう、というのは良いと思うし、人として当然のことだと思う。だけどやはり、ブログの指南書として一番大切な事を欠いているようにも思う。
くだらない話を書けば、「下げ」たあとに誰も「上げ」るエントリーなど書いてくれない。単純な批判のあとに、理性的な批評が生まれるようなものを書こう、そういう事がブログのひとつのあり方なのではないか。
新規性がある、ということと非常識であるということはとても似ていると思う。常識というのは常に過去の慣習に則ったものだから、新規性があるほど常識的でないという批判を受けやすい。しかし単に新しいだけ、非常識で奇をてらっただけのものであれば、その後に誰も注目はしない。また逆に、新しいと思って発表をしても、誰からも批判を受けないようであれば、それはもう新しくないという事だろう。
多数の批判を受け、その後にさらに論じられる何かがあるということが、価値のある新規なものであることの証拠であると思う。ブログにせよ、サービスにせよ、会社の経営方針にせよ、ネットで下げてから上げられるようなものを出そう、という考え方もあるのではないかと思う。