裏銀座から槍ヶ岳に登ってきました

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深田久弥は『日本百名山』の中で、

一生に一度は富士山に登りたいというのが庶民の願いであるように、いやしくも登山に興味を持ち始めた人で、まず槍ヶ岳の頂上に立ってみたいと願わない者はないだろう。

と、書いています。

どこから見ても「あれが槍ヶ岳だ」と分かる山というのも、富士山と並んで槍ヶ岳くらいかも知れません。北アルプスの縦走路が重なる交差点にあり、槍のように尖った穂先がとても特徴的で格好良い。ということで、槍ヶ岳は日本の山の中でもとても存在感のある山ですが、まだ登ったことがない。そのうち登れるだろう、と思っていたんですが、そうこうしている間にしばらく山から足が遠のき、38歳になっていました。
昨年くらいからふと、3000m級の稜線が無性に恋しくなって、あの独特の空気、景色、星空、稜線、広大な空間の中に身を置きたい、夜を越えてみたい、という気持ちが高まってきました。少し時間にも余裕ができ、1年越しの思いをついにこの夏に果たすことができました。

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今回歩いたルートは、通称「裏銀座」と呼ばれる、北アルプスの縦走ルートです。裏というからには表があって、表の方は、燕岳、大天井岳などを通るルートで、比較的にぎやかです。それに比べて裏銀座は、裏というだけあって少し地味目。良く言えば、自分と向き合えるルート、ということで、まあ一人で歩くにはむしろこちらの方が雰囲気に浸れて良さそうだということで裏を選びました。

単純に槍ヶ岳だけ登るのであれば、登って降りてくるだけの短いルートも有りますが、せっかく北アルプスの稜線に登るのであれば、数日間稜線の上で滞在できる縦走の方が涼しいし景色も良いし良かろう、と思い、しかしよく考えると自分自身過去最長となる5日間の単独縦走をしてみることにしました。

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裏銀座ルートの入口は信濃大町。そこからタクシーで高瀬ダムまで行き、烏帽子岳へ標高差1200mほど登ります。ここはブナ立尾根と呼ばれ、北アルプス三大急登と呼ばれる坂です。まあ、標高1000m以上登る山道で、しんどくない道は無いと思いますので、特別に急かというとこんなものだろう、という気もします。

それよりも、アルプスの主稜線まで登ることのなにが一番辛いかというと、途中ではほとんど景色が見えず、ただただ登りが続くことだと思います。だから、せっかく登ったんだし、しばらく上で縦走しよう、という発想になるわけです。

「縦走をしてます」というと、「すごいですね、自分はまだそこまでできません」というようなことを仰る方も結構いらっしゃいますが、僕からするとむしろ縦走は登ってしまえば楽ちんで、景色も良いし、標高差もせいぜい数百mしかないので、天上の散歩、みたいな感覚で、下から登って翌日にまた下る方がよっぽど体力的にはきつい気がします。ということで縦走はオススメです。

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それで、前置きが長くなりましたがこのブナ立尾根、登るまでは辛抱の登山だ、と思っていたんですが、途中の森林がなかなか素晴らしく、樹齢100年を超えるのではないかと思われる巨樹や、苔むした岩などが目を楽しませてくれました。こういう楽しみ方は学生時代にはできなかったのですが、植物や岩とも仲良くなって、随分楽しみが増えました。年をとるのも悪いことばかりじゃないですね。

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北アルプスの主稜線まで登ると現れるのが烏帽子小屋。そこから1時間くらいで烏帽子岳をピストンすることができます。

今年のお盆休みは太平洋高気圧が弱くて前線が日本列島に停滞し、全体的に天気が悪いということだったので、展望が無かったら小屋でおとなしくしていようと思っていたのですが、幸い初日は展望があり、空荷でピストンしてきました。

烏帽子岳は頂上の岩が本当に烏帽子の形をしていて、この岩のてっぺんに登ります。

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よくよく考えてみると、日本アルプスの主稜線に立つのはもう15年振りくらいになってしまっていました。仕事を始めてからは山からすっかり遠のいてしまっていたので、実は学生の時以来の稜線歩き。ああそうだ、こういう感じだったよなあ、と思いながら稜線を歩く至福の瞬間。明日からしばらく、この大空間と戯れることができるかと思うと、否が応でも胸が高鳴ります。

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翌朝は奇跡的に晴れ。縦走の出発を祝福するかのようなご来光でした。
烏帽子岳で出会った大阪から来られたパーティーの皆さんとも仲良くなり、一緒に朝日を眺めました。

「夕焼けは晴れ、朝焼けは雨」、ということわざに違わず、このあと天候は荒れ模様になりますが、ひとまずこんな光景が見られただけで大満足です。

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2日目は烏帽子岳から三俣山荘を目指します。朝はまだ晴れていて、雲海を下に眺めながら絶景の中を歩くことが出来ました。

が、次第に風が強くなってきて、雲が出始め、そして雨が降り始めました。

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風が強くなり、稜線を歩いていると吹き飛ばされそうになるような風もたまに吹いてきたため、野口五郎小屋で停滞される方もいらっしゃいました。が、まだ時間も早く、どうしても立っていられない、という程でもなかったので、僕は先に進みました。

この野口五郎岳から水晶岳の間の稜線は、北アルプスの中でも特に風が強い場所だそうで、確かにたまに「おっとっと」となるほどの突風が吹いてくるため、岩場などでは特に手も使ってしっかり体を支えながら進む必要がありました。

写真は水晶小屋の手前の切り立った稜線の道ですが、よくもまあこの強風でこんな場所を歩いたなあ、と自分でも思いながら、雨の中振り返って撮った写真です。

風が強いので水晶岳鷲羽岳はショートカット。縦走でもしないと登れない百名山を2つもカットするのは惜しい気もしましたが、風も強くて危ないのでまっすぐ三俣山荘を目指しました。水晶と鷲羽はまたの機会に来たいと思います。

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なんとか無事に三俣山荘に到着し、2日目は終了です。

今回はテントや寝袋や調理器具は一切持たず、全て山小屋宿泊前提で荷物を軽くして山に入りました。
昔は、「山小屋に宿泊しながら山に登るなんて富豪がやることだ。本当の登山じゃない」くらいの勢いで山小屋登山をバカにしていた気がするのですが、今やそんな勢いは全くなく、迷わず小屋に泊まります(笑)。

ところでこの三俣山荘は伊藤正一さんという方がオーナーさんで、雲ノ平山荘、水晶小屋と合わせて3つの山小屋を経営されているのですが、この伊藤正一さんは『黒部の山賊』という大変に興味深い本を書かれています。

定本 黒部の山賊 アルプスの怪

定本 黒部の山賊 アルプスの怪

詳しくは読んでいただくのが一番ですが、少しご紹介をすると、三俣山荘周辺の黒部源流域にはかつて山賊が暮らしていて大変恐れられていたらしいのですが、伊藤さんはこの山賊たちと仲良くなって一緒に山小屋を再建していったというのです。

さらに黒部源流域周辺には、カッパが出るという話や、「オーイ、オーイ」と呼ぶ声に「オーイ」と返すとおかしなところに連れて行かれて遭難してしまうので、「ヤッホー」と返事しないといけない、という、登山をする上で非常に有益な情報も盛り込まれています。

天気が少し荒れれば自分なんてすぐに吹っ飛ばされてしまうような、自然への畏怖を感じざるをえない場所に身を置いてみると、どこからともなく声が聞こえたり、不可解な出来事があると、「これはカッパの仕業だな」と考えたくもなるものです。

人間よりも自然の力が圧倒している場所において、言い伝えや信仰がどのように生まれていくのかが分かるような、そういう本でもありました。自分よりもどうしようもなく大きなものに対峙する知恵。日本古来の自然に対する信仰なども、こうして生まれたのではないでしょうか。

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3日目は朝から雨。三俣山荘から三俣蓮華岳、双六岳を経て、双六小屋方面を目指します。

この区間は稜線を避けた巻道ルートがあり、悪天候だったので多くの方がそちらを選んでいました。僕も天気がもっと荒れていればそちらに行ったと思いますが、早朝のうちはまだ小降りで風も弱かったので、三俣蓮華岳、双六岳を通って稜線ルートを行くことに。

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巻道との分岐点で、「おお!あとたった15分登れば三俣蓮華岳に到着ですね!しかも巻道と稜線ルートはコースタイムで30分しか変わらないんですね!」とか楽しそうに話をしていたら、巻道を行こうとしていた個人の方が2名、3人組が1組、「僕(私たち)も稜線ルートを行こうかなあ」と言い始め、いつの間にか全員行くことに(笑)。なぜか隊長に指名されて、個人メンバー3人の先頭を歩いて双六を目指すことになりました。

途中で別れましたが、3人組パーティーのうちお二方は女性で、とても明るく話をされていて、それで随分元気をもらいました。明るいことは強さだと思いました。

旅は道連れ、世は情け。悪天候でも同行者がいると心強いものです。
「夜のなかを歩みとおすときに助けとなるものは、橋でも翼でもなくて、友の足音だ。」と、ヴァルター・ベンヤミンさんも言っています。

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双六小屋に到着するとさらに雨が激しくなり、雷も鳴り始めました。この先の西鎌尾根はまた、雷や風を避ける場所も少ない険しいルートですので、この日は双六小屋で停滞を決定。朝の9時には小屋に入って衣類を乾かし、のんびりすることにしました。

昼ころに賑やかなパーティーが小屋に到着して、もしや、と思って外を見てみると2日前に烏帽子小屋でご一緒した大阪からのパーティーの皆さんでした。この日はまた一緒の小屋になり、ビールで乾杯させて頂きました。

午後に一瞬雨がやみ、1時間ほど晴れ間が出ました。今回の一番の目標の槍ヶ岳は、双六小屋からは見ることができませんが、隣の双六岳や樅沢岳に登れば見ることができます。この晴れ間を逃す手はない、と小屋から飛び出して樅沢岳まで登ってみました。

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振り返ると双六岳の姿が。この一体では珍しい、丸みを帯びた女性的な山容です。今あそこにいれば槍ヶ岳が見られたかも。

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そして樅沢岳に到着。がしかし、すでに雲が出はじめて槍ヶ岳は見られませんでした。明日はこの西鎌尾根を歩きます。

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翌日も朝から雨。風は比較的穏やかですが、雷が鳴っています。

歩き始めから雨と雷ではなかなか出発する気にもなれず、気象情報を聞きながら数時間小屋で様子見をしていました。

そうしている間にも、何人かの方々が西鎌尾根に向かいました。その後に天気が回復する見込みもあまりなく、仕方ない、と、少し雨が小降りになった時点で小屋を出発。槍ヶ岳を目指しました。

稜線を歩いて行くと、雨の中、突然空が明るくなり、顔を見上げると雲が薄くなって、突然ふわーっと槍ヶ岳が姿を現しました。槍ヶ岳、ついに見えたり!

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西鎌尾根を振り返ります。急峻な尾根で、天候も悪く、この時間帯にすれ違った人は一人もいませんでした。

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雷で少し怖い思いをしたものの、無事に槍ヶ岳山荘に到着。
ここはこれまでの山小屋と違って、上高地から来られた団体客の皆さんもいらっしゃって随分賑やかな様子でした。

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夕方、雨と雷が止む隙をついて大槍の穂先に登頂。ついに念願の槍ヶ岳登頂を果たしました。

途中のルートでご一緒した方の中には、同じく槍ヶ岳を目指していたものの、悪天候でルート変更せざるを得ず、双六小屋から下山された方も複数いらっしゃいました。

そんな中、僕が槍ヶ岳に登頂できた一番の理由は体力でも技術でもなくて、「時間の余裕」でした。下山された方の多くは、お盆休みを最大限使った予定を組まれていて、「どうしても明日中に家に帰らなければいけない」といった事情で下山をされていきました。

僕は今回、幸い2日ほど予備日を取ってゆとりのある日程を組むことができたために、悪天候時に迷わず停滞をして、予定よりも1日遅れで山頂に立つことが出来ました。縦走においては、「時間」はとても重要な持ち物だと思いました。

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頑張ったご褒美か、夕方素晴らしい光景が待っていました。
西鎌尾根を滝雲が流れ、柔らかい夕焼けの色に世界が染まりました。

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翌日5日目、北アルプスの主稜線と別れを告げ、新穂高温泉に向けて下山します。この日はついに晴れ!

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槍平に向かうカール状の谷を下りますが、数日前に起きた遭難事故の影響もあるのか、ほとんど人がいませんでした。

言葉に出来ない美しい風景、大きな空間の中に、いるのは自分一人。

一人あたりの空間がこんなに大きい瞬間なんて、普段の都市生活では絶対に有り得ません。

僕は今、なんて広大な空間を一人で使わせてもらっているのだろうか、と、その空間の大きさを感じ続けていました。

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新穂高温泉までは、槍ヶ岳から標高差2000mも下る長い道のり。
木や草、石や土と接しながら、淡々と下って5日間の縦走が終了しました。

ということで、久しぶりのアルプスの縦走が終わりました。

5日間歩いて、一番の目的だった槍ヶ岳の山頂に立つこともでき、また、基本的に悪天候続きだったものの、要所要所では雲が晴れて景色を見ることもでき、とても充実した山行になりました。

食事と宿を提供して頂いた山小屋の方々、途中で出会って元気をもらった方々、そして厳しくも美しい体験を常にさせてくれた山の自然に、ただただ感謝です。ありがとうございました。

山というのは、その時の自分を映す気がします。一人で歩いていると、一歩一歩、前に歩を進めることの、そのすき間すき間に自分が現れる気がします。

「なんでこんなに天気が悪いんだ」と悪態をつくのも自分の勝手ですし、雨の中で「なんて木々が美しいんだろう」と感じたり、雨の隙間の晴れ間に幸せを感じるのもまた自分の自由です。あるいはただ、歩くことだけに集中して無になることもできます。

山はただそこにあり、そこをどうやって歩いたか、どういう自分であったか、が、それぞれの登山を決めていくように思います。

15年もブランクがあって山に入ってみると、山を歩きながら映る自分が、以前の自分とは随分違っていることに気が付きました。単に苦痛でしか無かった尾根登りが、木々の生命を感じる時間に変化したり、速く強く進む事を優先していた山歩きが、時には立ち止まりながら、人との出会い、自然との出会い、その瞬間瞬間の豊かさを実感する歩き方に変わっていたり。

山はほとんど変わっていないのですが、歩き手が変わることで山が変わる。自分を映す鏡のようだと感じました。だから何度行っても、新しい発見があるように思います。


それから、自然の風景を「美しい」と感じるのはどういうことでしょうか。

山がある、木が生えている、岩がある、空が青い、雲が白い、太陽が輝く。それはなぜ美しいのか。

最後に新穂高温泉の少し手前で、登山道は終わり、ダム工事用の林道を歩く区間がありました。林道は道が平らなので登山道よりもずっと速いペースで歩くことができるのですが、なぜだか歩くのがつらいのです。足も痛くなってきて、突然「早く終わって欲しい」という思いが募ります。

少し前に、「人工的に作られた水は、森や鉱物の間を通って湧き出た水と比べて情報量が少なく、人工的な水ばかりを飲んでいると自然を感じる感覚が無くなってしまう」と仰る方がいました。水の「情報量」とはこれまたどういうことだ、と最初は思いましたが、長い時間をかけて生きている樹や石の中を通ってきた水には、成分として何かが含まれていることまでは理解できます。

「早く終わってくれないか」、と林道を歩いている時に、ふとこの「情報量」という言葉を思い出しました。きれいに整備された林道は、とにかく「情報量」が少ない。特に何も考えなくても、どんどん歩くことができます。適当に足を前に出せば、難なく歩くことができます。ところが登山道となるとそうはいかず、同じ地形は二度と繰り返すことはなく、一歩一歩、足をどこに置き、どうやって歩を進めるかを考えながら歩かなくてはいけません。確かにこれを情報量というのであれば、圧倒的に登山道の方が情報量が多いでしょう。

登山道を歩いている時に、妙な充実感を感じるのはこのせいではないかと思いました。どうやって歩くか、を考えているだけでもそれなりに忙しい。だから、あまり他のことを考えずに集中できる。ただ歩くことに集中することで、余計な考えを無くし、自分自身に戻ることができる。あるいは、山と一体になることができる。そこから自分と山との関係性が浮かび上がってくるような、そういう充実感があるように感じました。

50年、100年と生きているのではないかと思われるような巨樹を見ると、なぜだか見とれてしまいます。人間の寿命よりも長い時間を生きてきた生命には、やはりそれだけのものが備わっている気がします。木の幹は太くて大きく、長い間風雪に耐えながら成長した枝があり、表面は苔で覆われ、外見に深みがあります。さらに、少なくとも、同年代に生まれたたくさんの生命の中で、生えた場所や、遺伝子などが、100年を生きるための解であったということであり、そういう意味では、数学の美しい方程式を見ているような、100年を生きながらえる知恵、この世界の中での正解を見ている美しさもあるように思います。岩や、太陽もまた、とても長い時間を宿しています。

人間の寿命をはるかに超える長い時間と、人間の体積をはるかに超える大きな空間。普段よりもはるかに大きな尺度の時間と空間、いわばたくさんの情報量を吸収できることが、自然の美しさの一要因なのではないでしょうか。自分の存在よりもはるかに大きなものに触れる時に、普段の尺度では測れない、より大きなものの存在を感じることができる。逆にまた、より大きなものの中で、自分の存在を少し知ることができる。ああそうか、自分というのはこういう存在だったか、と自然との関係性の中で己を知ることができる。長い時間と、大きな空間を通じて得られる知恵のようなものが、山にはあるように思います。

次の山でまた、その時の自分と会えるのが楽しみです。

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八坂の神様が、京都の町を守ってくれる

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18歳で京都に来てから、途中で移動はあったものの、かれこれ16年間住んでいます。それでも知らないことはたくさんあるもので、今年は祇園祭の事をたくさん知る年になりました。

祇園祭というと、有名なのは宵山山鉾巡行です。宵山にかけては、山や鉾を持っている町内会が、一週間ほど前から山鉾の組み立てをし、通りを封鎖して巨大な建造物が出現します。

平日の、普通に会社にみんなが通う時間帯に、通勤路の真ん中に巨大な鉾が立ち並んでいる姿を見ていると、それだけでも何か、腹の底からワクワクするものがあります。夜には毎晩お囃子が奏でられ、町の真ん中に響き渡ります。

それが京都の町のど真ん中、四条烏丸の周辺で、平日から行われているのですから、京都の町の力を感じずにはいられません。

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山鉾の中でも特に人気があるのは長刀鉾です。長刀鉾は、常に巡行では先頭を走ることが決まっている特別な鉾で、その前面には、全ての鉾で唯一、生き稚児、生きた人間のお稚児さんが乗っています。他の鉾では、人形が飾ってあることが多いのですが、長刀鉾だけは本物の子供がお稚児さんとして乗っているわけです。

最近よくお世話になっている方が、かつてお稚児さんを出された家の方だということもあり、今年はお稚児さんについても詳しく教えて頂く機会に恵まれました。

聞けば、お稚児さんに選ばれた男の子は、一ヶ月ほど前からは地面に足をつけてはいけないらしく、トイレに行くのも誰かが抱えていかなければならないし、学校にも行けないそうです。女性と接触することも許されませんので、母親と接することもできず、神聖な期間を作るそうです。お金も数千万円の資金が必要ということで、聞けば聞くほど一般常識では考えられないような特別な存在なのだと分かってきます。

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そんな背景も聞いていましたので、すっかりお稚児さんに興味が出てきてしまい、巡行の日には先頭の長刀鉾に食らいつき、ずっと長刀鉾の少し前を歩きながら、お稚児さんの様子を観察していました。

お稚児さんは、両隣に座る禿(かむろ)と並んで顔を白く塗り、座っているだけでも神々しいのですが、巡行の途中は時たま、通りで言うと二本に一回くらい立ち上がり、鉾から前に乗り出して、左から右へと、そそぉー、っと、すくうような動作をしてくれます。これがまたなんともありがたく、僕と同じように長刀鉾を追いかけているお稚児さんファン軍団が周りにはたくさんいたのですが、皆さんこの動作が出ると、おおーっと歓声が上がります。ここに至るお稚児さんの準備の大変さを知ればこそ、よりありがたく感じます。

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山鉾巡行については、今年は大きな変化がありました。これまで一回で行われていた巡行が、49年ぶりに前祭と後祭の二回に別れたのです。後祭というのは、よく「後(あと)の祭」と言う、あの言葉の語源の後祭です。前祭に比べると少し地味な祭ですが、その分味わい深さがありました。以前は2回に分かれていたものが49年前に一つになり、それが今年また二つに戻ったのです。

なぜ今年だったのかと言えば、もう一つの大きな変化、大船鉾の150年ぶりの復活があったのです。
大船鉾は、150年前、幕末に「禁門の変」で焼失して無くなってしまっていたのですが、それが今年復活しました。

大船鉾を抱えるのは、四条新町を下ったところにある四条町。かつては毎年、後祭のしんがりをつとめていた名誉ある大船鉾が焼け落ちてしまうと、四条町ではご神体や懸装品だけを飾る「居祭(いまつり)」のみが行われてきたそうです。しかし、1995年に人口減少や高齢化で居祭さえも姿を消してしまいました。祭りが町からなくなり、「あの夏はほんまに寂しかった」と、自分たちの町から祭りが失われてしまったことを悲しんだ若手の方々がいらっしゃって、囃子だけでも復活させよう、と活動を開始。本来熟練が必要な囃子に、ほぼ未経験の方々ばかりを集めて、笛を吹かせて音が出た人は笛に、それ以外の人を太鼓と鉦に分ける、というすごいパート分けをするところから練習を開始されたとか。ただその時もまだ、鉾の復活までは誰も考えていなかったそうで、そこから10年間、お囃子だけを続け、2010年にようやく居祭を復活するまでこぎつけられたそうです。

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ただ、居祭が復活すると、ここがゴールでは、また以前のように祭りが廃れてしまう、というところから、やはり鉾を復活させよう、という話が立ち上がり、資金を集めながら大船鉾を再建していったそうです。再建の際には、他の鉾町から車輪を寄贈されたり、船鉾の設計を参考にしたりと、多くの方々の協力があって、150年ぶりの復活を迎えました。

それだけの思いと、時間が詰まった復活劇を果たした大船鉾がお目見えするということで、これまた49年ぶりに復活した「後祭」の宵山では、大船鉾が大人気。四条新町の交差点から歩行者さえも一方通行になった新町通を下がっていくと、黒山の人だかり。普段は静かな通りを人が埋め尽くし、行列に並んでから大船鉾に辿り着き、抜けるのに1時間近くかかりました。しかしまた、この人だかりの熱気も、150年ぶりに復活した今年ならではの醍醐味。ということで、たくさんの人の祝福と、長い時間を超えられた四条町の皆さんの誇らしい様子を見ながら、鉾を後にしました。

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翌日の後祭巡行では、この大船鉾がいよいよしんがりとして登場。前祭とは逆走するルートの後祭巡行の出発点となる烏丸御池交差点に向かうと、いよいよ150年ぶりに巡行を開始せんとする大船鉾と、その出発を一目見んとする人々が集まっておりました。いよいよ大船鉾の出発、となった時の、鉾に乗った音頭取と曳手たちの掛け声のそれはそれは勇ましいこと。先に出発した他の鉾とはまた、気合が違って聞こえました。どれだけの思いを込めて、ここに至ったのだろうと考えるだけで、こちらも胸が熱くなりました。

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150年ぶりに鉾が走り始める瞬間を見ることは、もうこれから一生あり得ない瞬間で、そんな歴史的瞬間に立ち会えた喜びとともに、大船鉾を追いかけて歩いて行きました。

河原町通りへの辻回しで前が詰まり始めると、前の鉾が詰まり始め、たまに大船鉾も止まります。少し中休みのような状態になると、音頭取や曳手の方々が、鉾と共に記念写真を撮るシーンも。それを祝いを込めて見守る観衆。喜びと、祝福と、誇りに満ちた空間がそこにありました。

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さて、そんな祇園祭ですが、これまた別の知人から、「宵山山鉾巡行を見て祇園祭を知ったと思ったら大間違い。本物の祇園祭は神輿渡御にあるのです」という話を聞きました。
あんな大きな山鉾以外に、まだ神輿とかなんとか、別の行事があるのか、と思いながらよくよく調べてみると、確かにそちらが神事としての本体である模様。

祇園祭というのはそもそも、京都の町の疫病退散を願って、祇園の八坂神社の神様を神輿に載せて市街にお出まし頂き、一週間「御旅所」に留まって頂いたあとに、また社にお還りになる、という神事だそうです。

山鉾巡行というのは、この神様が神輿に載ってお出ましになる前に、道中を清々しくお祓いする、いわば「露払い」であるとのこと。そして本来、前祭と後祭が2回あるのは、神輿が出てくる前に1回、お還りになる前に1回、道中をお祓いするために2回やっていたのだとか。

山鉾がたくさんあるので、2回に分けないとどうしようもなくなったのかな、などと浅はかな考えをしていたのですが、それを知って、なるほどそうか、と。むしろ巡行が1回になってしまっていた状態がおかしな状態だったのだと知りました。

そんなこんなで、「神輿渡御を見ずして、祇園祭を見たと言うなかれ」とまで知人に言わしめる神輿渡御を、ぜひ一度はこの目で拝見しようと、今年は初めて、巡行の日の17日の夕刻、18時頃に八坂神社の前の祇園交差点に出向き、お神輿のお出ましを待つことにしました。

祇園交差点に着いてみると、すでに人だかりで埋まっており、歩道は人でぎっしり。どこから見たものかとうろうろしていましたが、幸運にも交差点が見える場所を確保。そしていよいよ神輿の登場です。

東大路通の南から、順番に三基、神輿が担がれてやってきます。山鉾巡行と違って、「ホイットーホイットー」と掛け声をかけながら、シャリンシャリンと神輿を揺らして鳴らし、法被を着た男たちがやってくる姿の勇壮なこと。

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三基の神輿それぞれを担ぐために、3つのチームがあるらしく、三若、四若、錦とそれぞれ文字が書かれた法被姿の男たちが順番に現れ、八坂神社の前に差し掛かるとお神輿を揺らしたり回したり持ち上げたり、シャリンシャリンと何度も揺さぶって、神社の前で回ります。

しばらくすると三基の神輿が山の字に整列して地面にならべて置かれ、大勢の担ぎ手たちも地面に座り、一同が鎮まります。八坂神社前での神輿渡御出発式です。

八坂神社の宮司さん、京都市の門川市長、京都府の山田知事などが順番にお話をされたのですが、ここで門川市長が、「この八坂の神様が京都の町を守ってくれる。そして、日本を、世界を守ってくれる。」というようなことを仰りました。これはまた大きく出たものだ、と思いながら、しかしこの数日のあれこれを体験していた僕は、あながちそれも嘘ではないかも知れない、世界まではどうだか知らないけれども、少なくとも日本くらいは守っているかもしれないな、とふと思いました。

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7月17日に町にお出ましになった神様は、7月24日、後祭の巡行の日の夕方、再び八坂神社へと帰ります。
この日も三基の神輿が町中を練り歩き、最後に八坂神社に集結するということで、寺町通付近から、主に錦のお神輿にくっついて、八坂神社を目指しました。
寺町錦小路の交差点では、さすが地元、ということで錦の担ぎ手の皆さんのご家族や親類と思われる方々もたくさん通りに出られ、冷たい飲み物やアイスクリームを用意して待たれていました。
神輿が、地元の人々が待つ錦通に差し掛かると、そこで「ホイットーホイットー」と神輿を揺らし、差し上げをし、そしてしばしお休み。それぞれの担ぎ手に、家族の方などが駆け寄られて励まされる姿に、この神事がいかにこの地域に根ざしたものであるかを見た思いでした。

その神輿がいよいよ八坂神社の境内に入ると、境内を何周も周り、差し上げを繰り返します。最後の差し上げとあって、盛り上がりも最高潮に達し、見物客も一緒になって「ホイットーホイットー」と手を叩きながら参加していました。

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その後、神輿は境内の真ん中の舞殿に収められ、三基が並びます。

この神輿が八坂神社に帰る「還幸祭」の最後には、神秘的な神事があります。それまで明るかった境内の灯りが全て消え、担ぎ手の方々はいなくなり、にぎやかだった辺りが静寂に包まれると、神輿から神様が社にお戻りになる儀式が行われます。時間はすでに24時近く。

激しく勇壮な神輿担ぎから一変、暗闇と静寂の中で神様がお戻りになる儀式が行われました。10分間ほどの儀式が終わると、見物していた人々は静かに帰路につきはじめました。

儀式があまりに神秘的で、かつ、誰もが言葉も要らず「分かった」という気持ちになるからか、立ち去る人々の誰もが、あえて感想などを口にせず、ただ、静かに立ち去っていく様子が印象的でした。

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さて、これが、今年僕が体験した祇園祭です。

150年ぶりの大船鉾の復活、49年ぶりの後祭の復活、という記念すべき年に、しっかりと祭りを見ることができたのは幸運でした。

49年前、山鉾巡行を2回から1回にしてはどうか、という話が出た際には、京都を二分する議論が巻き起こったそうです。

山鉾町の主力産業である呉服産業が、高度経済成長期の波の中で活況を呈し、7月に2回も仕事を止めれいられない、ということで効率化を求めた。それに対し、本来の巡行の意味を守ろうとする人々。

その時、最終的な裁定が八坂神社の宮司さんに託され、そこで宮司は、「今は、長いものに巻かれておきなさい」と仰ったそうです。

日本全体が経済成長に向かい、効率を求めてまっしぐらに進もうとしている流れには、逆らうべきではない、ということでしょう。
とても柔らかい考え方だと思います。

そして、「今は」と言って、一旦本来の形を崩した祇園祭は、49年もの時を経て元の形に戻りました。この「今は」のタイムスパンの、なんと長いことでしょうか。半世紀もの間、「一時的に」形を変えながら、さてそろそろ、と元の姿に戻ることのできる力。

確かに1000年以上も続いている祇園祭であれば、50年くらい短い時間なのかもしれませんが、しかしかつての姿を知っている人も少なくなっている中で、祭りの形をまた大きく変えて、後祭を復活させることができる京都には、長い時間を見据えた融通無碍でいて安定した力を感じざるを得ません。

今回の後祭の復活はまた、経済成長を求め、効率を求めてきた日本の一つの時代の終焉と、新しい時代の始まりを象徴しているように思えてなりません。日本が、経済合理性一辺倒の時代から、成長と心の豊かさを併せて求める時代に変わり始めていることを、祇園祭の姿を変えた京都が宣言しているのではないでしょうか。

京都は、とても古い町でありながら、未来を示す先端的な町でもあるのかも知れません。

門川市長は、「八坂の神様が、京都の町を、そして日本を守っている」と仰りました。
神様は、深夜の暗闇で行われる還幸祭で目を凝らしても、その姿を見ることはできません。
しかし、何千、何万人という人々が、仕事を休み、道路を封鎖し、この祇園祭を行っているその姿は、ありありと目にすることができます。
150年間、消失したままだった巨大な鉾を再建し、誇り高く凱旋する人々の姿、神様を載せた神輿を担ぎ、大きな掛け声で汗を滴らせながら町を巡る人々の姿を、目にすることができます。

これほど大規模な行事を、千年という途方もなく長い間、ずっと続けられる人々の心のなかにあるものが神様なのであれば、僕はその存在を感じずにはいられませんし、それがこの町を守っている、というのであれば、そうだろう、と感じます。

人は、「この土地からはいつ離れても構わない」という人しか住んでいないような場所には、安心して暮らし続けることはできないと思います。

「この町から祭りがなくなったのは寂しい」と感じる人の心、この町には祭りがあって欲しい、と思う人の心が、この町を安定させ、守っているのではないかと思うのです。

そんな京都という町があるからこそ、日本の安定にもまた、少しは寄与している部分があるのではないでしょうか。

古くて新しい祇園祭、機会があればぜひご覧になってみてください。

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株式会社はてなの代表取締役会長に就任いたしました

お久しぶりです。

このたび、株式会社はてなにおいて、私、近藤淳也、および経営陣の体制変更を行うはこびとなりましたので、ここでご報告させていただきます。

2001年のはてなの創業以来13年間、代表取締役社長を務めて参りました、私、近藤が、本日8月1日より代表取締役会長に就き、後任には、はてなの開発本部を率いて参りました栗栖義臣が代表取締役社長に就任いたします。

また、これまで私と二人三脚で共にはてなの経営にあたって参りました取締役副社長の毛利裕二は、ここでコンビという形から変わり、これからは取締役ビジネス開発本部長として、引き続き営業拡大・事業開発の分野にさらに尽力してもらうこととなります。

また、これに合わせ、3人の創業メンバーの1人でもあります大西康裕が執行役員サービス開発本部長に就任いたします。

たった3人しかいなかった創業期に、がむしゃらにプログラムを書いて、たくさんのサービスを開発し続けたのが2003年頃までの数年間でした。
その後、次第にサービスが成長し、社員の数が増え、次第にマネジメントの仕事の比率が増えていったのが2004年の東京移転からの数年間でした。
そこで一度、シリコンバレーに子会社を設立し、もう一度サービス開発の最前線に立って、新サービスの創出に取り組んだのが2006年から2008年にかけてのシリコンバレー時代。
2008年に日本に戻って来てからは、京都オフィスの立ち上げと、東京オフィスの強化を行って参りました。

京都・東京体制を敷いてからは、新卒社員の採用、組織作りなど、長期的な会社の成長に向けた基礎固めを行い、それまでより安定した、もう少し成熟した会社になるべく努力を重ねて参りました。

奇抜なアイデアを思いつくそばから形にして、ユーザーの皆様にお見せしていくという、アイデアと新規性を最優先に動いていた時代から、もう少し計画的に開発を行って、多くのユーザーの皆様にご満足のいただける品質の高いサービスを提供し、社員の増加を支えられるだけの売り上げを上げていくことができるような、そういう少し「大人の」会社になるべく、この6年間ほどは尽力して参りました。

ここに来てその努力も実を結び、組織をまとめ上げ、事業を着実に成長させていける力のある人員がはてなには揃って来ております。
また直近では、社内でノウハウを培ったサーバー監視ツールを、ほかの企業様にもご利用いただけるようパッケージ化したMackerel(マカレル)の提供を開始するなど、これまでにない法人様向けの新規事業の創出にも取り組んでおります。

そうした中、はてなの価値の核であると考えておりますユーザー様向けのサービスにおいては、必ずしも期待したとおりの目覚ましいサービスの成長や、新サービスの創出ができていないという自覚もございます。

このたび、これまで開発組織を卓越したマネジメント能力でまとめあげてきた栗栖に、経営執行を託しながら、会長職という立場で改めて私が新サービスの創出にも注力するという、新たな役割分担に移行することで、より魅力的なはてなを作り上げ、会社の発展を促進することができると判断をいたしました。

はてなの会長職には、非公式ながら以前より、犬のしなもんが就いて参りました。創業以来飼っておりましたコーギー犬しなもんでしたが、ユーザーの皆様からいつしか「しなもん会長」と呼んでいただくようになり、社内でも「会長!」と呼ばれておりました。そんなしなもんも、昨年6月に寿命を全うし、他界をいたしました。しなもんがいなくなってから早一年。会長の空席を埋める、というわけではありませんが、株式会社はてなの二代目会長に就任し、また新しい役割ではてなを盛り立てていく所存です。

新しく社長に就任いたします栗栖ともども、今後とも皆様のご支援を承りますよう、お願いいたします。

これからのはてなに、どうぞご期待ください。

2014年8月1日 近藤淳也

栗栖新社長からのご挨拶はこちらです。
http://chris4403.hateblo.jp/entry/2014/08/01/111243

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